学校教育や劇作家の立場から、コミュニケーション能力について考える本。 マナーが人格を示さないように、コミュニケーション能力も人格ではなく文化や知識・経験の違い。
コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人のように喋れるようになれということではない。 欧米のコミュニケーションが、取り立てて優れているわけでもない。 だが、多数派は向こうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない。
- 表現するという「異文化理解能力」と同調するという「同調圧力」のダブル・バインド(2つの矛盾したコマンド)
- 少子化でずっと同じクラス
- 人は伝えなくても伝わると省略する
- 演劇の芝居臭さは西洋近代演劇を模倣しているから
- 英語はアクセント、日本語は語順や繰り返しで強調
- 「ロシア人は本当にチェーホフの台詞みたいに喋る」
- 協調性から社交性へ
心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか、 「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか。
対話と会話
- 日本はムラ社会を基本として構成され、会話はあったが対話がなかった
- 会話:価値観や生活習慣なども近い親しいもの同士のおしゃべり
- 対話:あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも価値観が違うときに起こるそのすりあわせなど
- ハイコンテクストな社会は少数派(良い悪いではない)
- 西洋と比べ、「対話」のための語彙が少ない
- 対話的な精神:異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度
- 分かってもらう、説明する、(例えどちらかの意見に落ち着いたとしても)話し合い結論を出す
- 対話の基礎体力が必要
冗長率
- ひとつの段落、文章に意味伝達以外の無駄な言葉が含まれているか
- 対話が一番冗長率が高い(腹の探りあいや枕詞)
- 冗長率を時と場合によって使い分けるのがコミュニケーション能力
コンテクストの「ずれ」
- コンテキストの「ずれ」は気づきにくい
- 「砂漠」で何をイメージするか
- 「サモワール」で何をイメージするか
- 「長距離列車で隣の人に話しかける」という演技
- 日本人は1割しか話しかけない → そういうキャラ、もしくは何らかの強い理由
- アイルランド人は「話しかけないと失礼だ」
- イギリスの貴族は「紹介されるまで他人と話すな」 → 高等教育を受けていないか、あえて貴族らしくなく振る舞っている
- 韓国は相手の年齢により話し方が変わる → 話しかけづらい
- ちなみに日本の女性旅行客のクレーム「韓国旅行でいきなり年齢を聞かれた!」
この「簡単に煮えるけれどコンテクストの外側にある言葉」のことを、私はコンテクストの「ずれ」と呼んでいる。 そして、まったく文化的な背景が異なるコンテクストの「違い」より、その差異が見えにくいコンテクストの「ズレ」のほうが、コミュニケーション不全の原因になりやすい。 私たちは、この「ずれ」を容易に見つけることができないから。
これからの時代に必要なリーダーシップは、弱者のコンテクストを理解する能力だろうと考えている。 社会的弱者は、何らかの理由で、理路整然と気持ちを伝えることができないケースが多い。 いや、理路整然と伝えられる立場にあるなら、その人は、たいていの場合、もはや社会的弱者ではない。 社会的弱者と言語的弱者は、ほぼ等しい。 私は、自分が担当する学生たちには、論理的に喋る能力を身につけるよりも、論理的にしゃべれない立場の人びとの気持ちを汲み取れる人間になってもらいたいと願っている。